「女はずるい・甘えている」男が妬みたくなる理由が説明できそうだと話題に・ある男性の私見に賛同の声

ジェンダーフリーや男女の性差別への配慮が大切にされるようになった今日ですが、現実にはいまだ、男性の女性に対する偏見が根強いと考えさせられるエピソードは日常で多数目撃されます。

こうした中、SNS上ではある男性が「女性蔑視をしてしまう原因」を自身の視点で文章化したものが公開され「ここまで言語化できるのがすごい」と反響を呼んでいます。

「女はずるい・甘えている」男が妬みたくなる理由は・・ある男性の私見

今回、話題になったのは、X(旧Twitter)で個人アカウント「三好さん(@miyoshiiii)」のお便り欄に寄せられた、ある男性の投稿でした。

その男性は、フジテレビ社内での女性蔑視やパワハラ・セクハラ問題に関する投稿を目にしたことで、「自分の中にも同じような価値観があったのでは」と気づいたと言います。そして、「女性が下に見られてしまう背景にはこんな”男性側の思い込み”があるのかもしれない」と、自身の経験をもとに率直な気持ちを綴りました。

以下に、その内容をわかりやすくまとめて紹介します。

※本文はTwitterから読むことができます。

この、ある男性の投稿を要約をすると次のような気づきがあったといいます。

気づき1:「女性は下」と思い込んでいた──その理由に気づいた

「自分の中に、無意識に“女性は男性より下”だと見てしまう感覚があった」男性と語る男性がいます。

その根っこには、生まれ育った家庭環境があったそうです。幼い頃に見ていたのは、支配的な父親と、その父に合わせてガマンを続ける母親の姿。知らず知らずのうちに「男性が強く、女性は従うもの」という考えが心に残ってしまっていたといいます。

気づき2:見ないようにしていた“母の犠牲”

「母はいつも自分を支えてくれた」と思っていた彼。でも本当は、母の愛は“無償”ではなかったのでは──? そんな疑問を持つこと自体が怖かったそうです。母のガマンを認めてしまうと、自分の存在や価値が揺らぐように感じて、現実を否定してきたと語ります。

気づき3:「犠牲=愛」だと思っていた過去

恋愛においても、「相手が自分のためにガマンしてくれることが愛」だと思い込んでいたという彼。自分の気持ちや欲を一方的に押しつけていたこともあり、「相手の気持ちにちゃんと向き合えていなかった」と反省を語っています。

気づき4:男性も変われる、変わっていい

そんな彼がいま感じているのは、「変化はできる」という希望なのだそう。価値観は変えられるし、それは女性のためだけではなく、自分自身の幸せのためでもあると実感したといいます。今後は、このようにもっとお互いを思いやれる関係性が広がっていってほしいと願っています。

はじめまして。もうすぐ三十路の男です。

嫌知らずで三好さんを知り、以降拝見させていただいています。

それが変わるきっかけになったのが、友人が「日本人女はマザコンを嫌うが、どうせイケメンのイタリア人のマザコンなら肯定する」というような発言です。

僕も(そうだろうなwww)などと思っていて、軽い気持ちで調べてみたところ、日本人女性のイケメンマザコンイタリア人に対する感情等はわかりませんでしたが、何故イタリアの母親がマザコン息子を育ててしまうのかについて、多少の知識を得ることが出来ました。

(現在は変わったようですが)イタリアでは伝統的にカトリックが強く離婚を許さなかったため、夫からどんなに酷い目にあわされていても女性は逃げられない。更にイタリア人の男尊女卑、女性が犠牲にならざるを得なかった社会。それの捌け口として母親は息子を溺愛し、母親なしには居られない存在にしてしまう負のループがあるようでした。

恥を忍んで言うと、最初は(じゃあ結局女が悪いんだな)と思いました。そう育てているのが女なんだから、女の責任だと。

それはそう思いたい理由が僕の中にあったからです。僕の母親が家族のための犠牲になって、苦痛を堪えて子育てしていたと思いたくなかったんです。

でも現実には明らかに犠牲が存在していました。子育ては大変なものだとか、苦労は付き物だとか、そんなレベルではない犠牲です。 

僕の父は仕事も趣味も休日も友人関係も実家も好きに堪能しながら、母にはそれらを一切許していませんでした。妻なら母親ならそれらを諦めるべきだという考えがあり、それら意外に関しても、自分の支配に背くと暴力に訴えて母を黙らせる男でした。

それを見ながら(お母さん可哀想だな)と思う一方で(これが普通で、女はこうであるべき、女にはこうするべきなんだな)とも思ってしまっていました。

そして母が犠牲を強いられていたと認識してしまうと、自分に対する母親の無償の愛情が目減りする(母親の愛情の価値が落ち、本来得られたはずの完璧な愛情を得られなかった俺は損をしている)気がしてしまう。それを恐れていました。

母親が無償で一点の曇りもない喜びのみで俺のために奉仕してくれていないと、俺の価値が減る。そんな恐れです。

母親の犠牲という現実を本当は知っているからこそ、それは犠牲なんかじゃないんだと思いたかった。

そして恐ろしいことに、犠牲によって成り立つことを享受していた正当化のために、自分の彼女相手にも俺のためにどれだけ犠牲になってくれるかで愛情を試すような、矛盾した性格を持つようにもなっていました。

愛情なんだからそれは犠牲ではない、と証明しようとしていた気がします。

イタリアの事情を調べてからすぐにこれらに気付いたわけではないのですが、何かにつけて頭を過るようになり、数年それが重なって少しずつ(俺の感覚がおかしいのでは?)と思うようになりました。

イタリアは母強し+女性をちやほやするイメージがあったので、男尊女卑が強いのも驚きで、それらが女性を尊ぶこととは別なんだと理解した辺りから明らかに感覚が変わった気がします。

これは極端な言い方ですが、「俺の性欲の対象として君は最高に価値があるよ!」とちやほやすること=相手の価値を認めることだと思っていたので、これはダメなんだ、と理解した時は衝撃でした。

その時にやっと、自分の性欲の対象として最高だという対象を見つけた瞬間の喜び、嬉しさは一方的に俺のものでしかなくて、相手は全く喜びも嬉しさも感じない、ということを理解した気がします。

口に出して言ったことはありませんが、(俺はこんなに嬉しいのに何でお前は同じように嬉しがらないの????何で嫌なの????俺の性欲だよ???わかってる??????)みたいな感覚を漠然と持っていて、自分の性欲にとんでもない高値をつけて押し売りしようとするのに似ていた気がします。

ここに至るまでは、女性の身体的な危険の問題はそれを提示されるだけでこちらが悪者にされたように思って、理不尽な苦情だと思っていました。

結局のところ現実を直視出来ず、自分自身の自尊心の問題を他者に依存することで満たしたい、という幼稚な未熟さに、二十代も後半になってようやく気付けた…というお話でしかないのですが。

SNS等を見ていると、日本社会における女性の問題を直視するのを嫌う人たちの中には、僕のように育った家庭に問題があり、母親の愛情の対象としての自分に自信がないタイプも多そうな気がしています。

だから仕方がないとか父親のせいだとか、社会のせいだと言って自分も同じことを繰り返していたら、確実に自分自身が不幸になります。

解決するにはまず自分の問題を直視するしかないので、三好さんの指摘から効果が出ている可能性を感じています。

女性のための三好さんの呟きに乗っかるのは心苦しいのですが、これは女性の尊厳だけの問題ではなくて、男の不幸(だという思い込み)に関する問題でもあります。

社会は中々変わらなくても、個人単位で救われる人たちがいると思っています。

学生時代は得意気にセクハラ・ノンデリ発言をしていた友人知人たちも、ここ最近の性被害関連のニュース等には真顔で「令和にそれはないわ」という雰囲気になってきています。

令和じゃなくてもダメだったんだよな、とは思いますが、日本の男の価値観が改善される可能性はまだあると、ほんの少しでも思っていただけたらいいなと思い書き込ませていただきました。

そう思ってもらえたら男にとって都合がいいからではなく、男側が良くなっていければ僕の母のような被害を受ける女性が少しでも減ることになると思うので。

長々と失礼しました。

出典:mond.how/ja/miyoshiiii

「言語化してくれてありがとう」「ほんとこれ」性差別の原因がわかったと反響も

この投稿に対し、SNSでは「男性目線で性差別のルーツをここまで丁寧に分析しているなんて」と、共感や関心の声が多数寄せられています。

本当にこれ。どうか男性諸氏、女vs男という思考にならないで。
私も男性ゆえに感じている生きづらさの根っこ、たとえば“女はずるい”と感じてしまうその感覚の出どころに向き合って、一緒にもっと生きやすくなっていきたい。

男性の内面を詳しく書いた男尊女卑トピックの文章をあまり読んだことがなく、大変勉強になりました。自身の母親の犠牲を透明化してしまうところから始まるのですね…根深い…何度も読み返します。」

「この文章を読んで、こんがらがった知恵の輪がとけるような気がしました。こういった経緯で無償の愛=犠牲だとうっすらみんな意識にあって、女性の負担を減らそうとすることは反対に罪になるっていう、しょうもない話になってるのかな。女はもっと強くなり、男は恐れをなくすのが大切そう。

投稿した男性は、文章の最後をこう締めくくっています。

「これは女性の尊厳だけの問題ではなく、男の“不幸だと思い込んでいる感覚”に関する問題でもあります。社会はすぐには変わらないかもしれませんが、個人単位で救われる人はいると思っています。

学生時代、セクハラやデリカシーのない発言をしていた友人たちも、最近の性被害関連のニュースには真顔で『令和にそれはないわ』という空気になってきました。もちろん、“令和だからダメ”ではなく、いつの時代でもダメだったとは思います。

でも、日本の男性の価値観が変わる可能性はある。そう思ってもらえたら嬉しいです。それは、男性にとって都合がいいからではなく、男側が変わることで、母のような女性の被害が減ることにつながると思うからです。」

日常に存在する「あたりまえ」の中に見つかる「思い込み」や「ゆがみ」。少しずつ見つめ直していく積み重ねが、性別を問わず、誰もが尊重される意見を発信しやすくなる社会への第一歩なのかもしれません。